もう随分昔の事の様に感じる。私はその時きっと迷っていたのだろうけれど、そんな私のことを、彼は後押ししてくれていたのだろう。だから毎年こうして、彼の居場所だったこの桜の木を描く事に決めているのだ。木々の寿命は人間とは比較出来ないが、それでも緩やかに年老いているのだろう、毎年違う表情を私に見せた。

「久しぶり。元気にしてる?」

一本の木に手をあて、目を閉じ、私は語りかける。聞こえているかどうかは、わからない。どうしたって現実は嘘を言わない。私はその性質を好いているのだけれど、彼を思い出す時だけは、この時が嘘であってほしいとか、そんなことを思うのだ。

春はまだ遠い。コートのポケットに手を突っ込み、かつて神社のあったその場所を歩いていた。そこを少し通り過ぎると、黒褐色の木で作られた小さな祠がある。その前に立つ。随分と隅っこに追いやられたものだ。この見晴らしの良い丘は、もうすぐ崩されて高速道路を敷くらしい。それはつまり、この桜の木が、何処かへ捨てられてしまうということだ。

「…ねぇ、君も何処かへ行っちゃうの?」

思わず口から漏れた言葉はしかし、本心だった。私達を繋ぎ止めていた、そのつもりでいたこの桜がなくなれば、何もかも夢の中の出来事として終わってしまう。そんな気がした。そして私はまた少し寂しくなるのだ。

呟きに応える声はない。ただ、其処にいる様な。
そんな気がずっとしていて、暫くそうした後に帰路へ着く。

チリン。

白い猫が私を追い抜いて、立ち止まり。振り返った。まるで降り積もった雪の様だ。有り体な感想文は空に吸い込まれていく。

飼い猫か。歩く度に涼しい音が響く。チリン。ほら、また。

「……ふふふっ、ついてこいって?」

白猫は立ち止まっては振り返り、私を見つめた。丁度いい。今帰っても、暇をもて余すところだった。付き合ってやろう。一人で勝手に納得し、そしてとぼとぼゆっくりと、猫の後を追い掛けた。

「…どこまでいくんだーい。」

もう随分歩いた気がするが、白猫は歩みを止めない。次第に山を登りはじめた。神社のある丘の、更に奥だ。

冬の日中は短い。もうじき陽も暮れる。そろそろひきかえそうかと思った時だった。

「あ…野うさぎ?」

雪面を赤く染めた野うさぎが横たわって動かなくなっていた。きっともう何時間も前に死んでしまったのだろう。白猫は野うさぎに寄り添って、そして私をしきりに見るのだ。心が痛い。どうしようもないことは、もう、どうしようもないのだから。

「……弔ってあげよっか」

直ぐ傍、木の根元に穴を掘って埋めた。その間ずっと、白猫は私の傍でその行為を見続けていた。理解しているのだろうか。瞳に涙を溜めている様に見えるのは、私の気のせいか。そうあってほしいと願っているだけ。わかっているのに、そんなこと。

「おうち帰んないのー?ご主人、心配してるぞー?」

帰り道、白猫は私にずっとついてきた。鈴が付いているから、連れて帰る訳にもいかない。私が言って聞かせても、にゃあと気の抜けた声をあげるだけ。

「…まぁ、いっか。いこ。」

きっとそのうちもとのお家に帰るだろう。
今は、ひとりぼっちが怖いから。
このこも、私も。

ふと、冷たい風が吹き付けた。白猫を抱き抱える。拒絶はなかった。

「あったかいね。」

ナァと、一声。嬉しそうに聞こえるのは……いや、きっとそう思っているに違いない。

「…君のお名前は何て言うのかな?」

ナァ。ナァ。ナー…。

「そっか、じゃあ君は今からシロだ。そうしよう。いいよね?」

錆びれたアパートの一室。鍵を開ける。
気が付けばもう、陽は落ちていた。

「…ありがと。さよなら。」

そして私は扉を閉じた。重苦しい金属音も慣れてしまえば日常足り得る。

早く暖かくなればいいのにと願いながら。




-薫花-
(薫る度、咲いては散り逝く、君の声)